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大阪高等裁判所 昭和42年(お)1号 判決 1970年1月28日

金森健士

明治三二年六月四日生

右の者に対する放火被告事件につき、昭和一七年八月二一日大邸覆審法院が言い渡した有罪判決(同年一〇月二六日京城高等法院において上告棄却の判決があり、同日確定)に対し、被告人から再審の請求があつたところ当裁判所では昭和四四年六月二八日再審開始決定をし、右決定は同年七月二日確定したので、当裁判所はさらに審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪

理由

第一公訴事件及び本件再審開始に至る経緯

(一)  本件公訴事実は、「被告人は、昭和一六年一月上旬頃から釜山府仙町一、八八七番地朝鮮製綱株式会社と同一構内に所在する日本帆布合名会社釜山帆布工場に職工監督として勤務していたものであるが、平素より同工場長小路梅市と折合が悪かつたところ、たまたま同年九月二三日頃同工場長が被告人らに取扱わせていた同工場の出勤簿を人事係長坪金亀太郎に取扱わせたことから痛く同工場長に反感を抱くに至つたが、同年一〇月二日午後九時半頃、同工場事務室内において数名の事務員らと共に職工運動会の準備をなした際、同工場長から被告人が自分の受持仕事もせず無用の事務室内に居ることを注意されたため、ついに同工場長に対する忿懣の情が押え難くなり、むしろ同工場を焼払い同工場長をその責任上失職せしめて復讐しようと決意し、同日午後九時四五分頃右帆布工場に隣接する朝鮮製綱株式会社工場内の粗紡部の一隅に積み置いてあつた製綱原料の大麻仕掛品に所携のマッチで放火し、因つて右会社工場木造平家建二棟及びこれに隣接した右帆布工場の板塀の一部を焼燬したものである。」というのである。

(二)  本件記録及び取寄にかかる身分帳簿と題する記録によれば、被告人は昭和一六年一二月一〇日釜山地方法院検事局検事から同地方法院に対し前記公訴事実につき起訴されて予審を請求され、同地方法院予審判事松田伝治は昭和一七年三月一八日同事件を同地方法院の公判に付する旨の予審終結決定をし、同地方法院は審理の結果同年六月三〇日被告人を懲役一五年に処する旨の判決を言い渡し、被告人は即日大邱覆審法院に控訴の申立をしたが、同年八月二一日同覆審法院において前記公訴事実と同様の事実認定のもとに一審同様懲役一五年に処せられ、さらに即日京城高等法院に上告の申立をしたが、同年一〇月二六日上告を棄却され、ここに右大邱覆審法院の判決が確定するに至つた。かくて、被告人は同日より刑の執行を受け始め、大邱、京城、大田、釜山の各刑務所を経て、終戦後福岡、熊本の各刑務所に移監され昭和二二年一一月二四日仮釈放により熊本刑務所を出所し、昭和三二年一〇月二五日刑期満了によりその刑の執行を受け終つたものであるが、仮釈放後、関係機関に対し自己の寃罪を訴えつづけ、弁護人の協力を得て調査の結果、被告人が服役中の昭和一八年一二月頃、中国人干文柱(または禹文柱、以下同じ)なる者が国防保安法違反等で釜山憲兵分隊に検挙され、翌一九年四月頃釜山地方法院検事局検事長谷川寛が干文柱を本件朝鮮製綱工場に対する放火と全く同一の放火事件を含む数件の事実につき起訴して予審を請求し、前に被告人の事件につき予審の取調に当つた同地方法院予審判事松田伝治が朝鮮製綱工場に対する放火の事実を含め有罪の予審終結決定をして同地方法院の公判に付したが終戦のためその後の処理が不明であるとの事実が判明したとして、昭和四二年二月二八日最高裁判所で再審請求の管轄指定を受けたうえ、同年三月一五日当裁判所に再審を請求し、当裁判所は昭和四四年六月二八日その請求を理由ありとして再審開始決定をし、右決定は同年七月二日確定するに至つたことが認められる。

第二記録の保存状況及び本件における資料

(一)  本件放火事件は、終戦前の昭和一六年一〇月二日、いまを去る約二八年余前に、当時日本の統治下にあつた朝鮮釜山市に起つた出来事で、当時の朝鮮総督府の各裁判所で審理されたものであつて、終戦後韓国の独立に伴い、裁判記録の保管も日本の手を離れ、調査の結果によつても、本件被告事件及びその後真犯人として釜山地方法院に起訴されたという干文柱の国防保安法違反等被告事件のいずれの記録も発見されるに至らず、本件に関係あるものとしては、わずかに、被告人が終戦後在監した熊本刑務所保管の被告人の身分帳簿一冊(大邱覆審法院の判決謄本、視察表、刑執行に関する書類等を編綴)が存在するに過ぎない。

(二)  当裁判所は、証拠として、熊本刑務所から取寄せた身分帳簿一冊、本件再審開始決定前の当裁判所の証人岩田祥一(元朝鮮製綱株式会社ならびに日本帆布合名会社の各工場長)、同毛利一男(右両会社の各代表取締役)、同松村正治(元朝鮮製綱株式会社社員)、同林田重生(同上)、同松田伝治(元釜山地方法院予審判事、現在公証人)、同長谷川寛(一、二回)(元同地方法院検事局検事、現在弁護士)、同森下保雄(元釜山憲兵分隊特高班長憲兵准尉)、同大橋光男(同憲兵分隊憲兵軍曹)、同堤初男(同上)に対する各尋問調書及び申立人(被告人)に対する質問調書、弁護人岩田喜好提出にかかる、岩田祥一の供述書添付の図面二葉、朴成大名義の書面、林秀成名義の陳述書、本件火災前の写真二葉、元朝鮮製綱株式会社の現在の写真三八葉、写真撮影位置図と題する書面、釜山直轄市街図につきそれぞれ証拠調をしたうえ、さらに、証人松田伝治、同金森たつえ(被告人の妻)、同森下保雄、同大橋光男、同小西由之助改め小西祥進(元日本帆布合名会社釜山帆布工場職工監督)、同村田左文(元大邱覆審法院検事局検事、現在弁護士)、同依田克己(元釜山地方法院次席検事、現在弁護士)、同静永世策(同上)、同塚本冨士男(元大邱覆審法院判事、現在弁護士)、同鈴木千太郎(元釜山憲兵分隊憲兵兵長)を尋問し、被告人が拘置されていた当時に着ていたという被告人の着物、上岡進の軍籍経歴証明書を取り調べた。

第三本件火災の発生と被告人及び干文柱の放火事件の証拠

(一)  再審開始決定前の当裁判所の証人松田伝治、同岩田祥一、同毛利一男、同松村正治、同林田重生に対する尋問調書及び被告人に対する質問調書並びに証人小西祥進の当公判廷における証言によれば、終戦前、釜山市所在の朝鮮製綱株式会社(以下単に「朝鮮製綱」という。)は軍の監理工場でロープ等の製造をし、これと同一構内にあつて高い煉瓦壁を隔てて隣接する兄弟会社の日本帆布合名会社釜山帆布工場(以下単に「日本帆布」という。)はテント等の製造をしていた会社であるが、被告人が昭和一六年一月初頃右日本帆布の技術員兼職工監督として大阪から同工場に赴任し、妻子とともに右両会社の構内にある両会社の事務所に隣接する社宅に居住していたところ、同年一〇月二日被告人が夜勤勤務中、午後九時四五分頃、右朝鮮製綱の工場内粗紡部付近から出火して、同工場が全焼し、同工場に隣接する職工等が理在する右日本帆布工場の板壁の一部が燻焼したことが認められる。

(二)  被告人並びに干文柱の各朝鮮製綱に対する放火事件の証拠については、両事件の記録が存在しないので、前記各資料から判断するほかはない。

そこで、まず被告人を有罪とした証拠についてみるに、被告人に対する前記大邱覆審法院の確定判決は、その証拠理由として、原審判決の証拠理由中「被告人ノ当公廷ニ於ケル」とあるを「原審公判調書中」と、単に「供述」とあるを「供述記載」と訂正する外同判決に説示するところと同一なるを以てここにこれを引用す、と記載しているにすぎないから、右確定判決が被告人の一審公判調書中の供述記載の外にいかなる証拠をもつて事実を認定したものかは、右判決からは明らかではなく、また右一審公判調書中の被告人の供述記載も放火の動機に関するものか、放火の実行行為そのものに関するものか、あるいはまた、その双方に関するものであるかも明らかではない。しかしながら、再審開始決定の証人松田伝治、同長谷川寛(一、二回)に対する各尋問調書及び被告人に対する質問調書並びに身分帳簿中の視察表に松田予審判事が服役中の金森健士を証人として尋問した際の尋問内容につき看守が記載した尋問要旨として、「警察署、検事廷、予審廷でも認めているがどうか」との尋問に対し、被告人が「公判廷で真実を申し上げるつもりでその強制に耐えかねて申したもので真実ではありません。」と答えた趣旨の記載があること、前記大邱覆審法院の確定判決の証拠理由中に「当審公判廷における被告人の供述」なる記載がないことを総合すれば、放火の動機について、被告人の妻金森たつえの事件当日被告人と夫婦喧嘩をした旨の予審判事に対する供述を録取した調書のほか、関係人の予審判事に対する供述を録取した調書があつたこと、捜査官による実況見分調書及び予審判事の検証調書があつたこと、日本帆布の韓国人の女子工員二名ないし四名の犯人の後姿が金森によく似ていた旨の捜査官及び予審判事に対する供述を録取した調書があつたこと、並びに被告人が警察官、検事及び予審判事に対して公訴事実記載のような動機及び放火の顛末について自白し、これを録取した調書があつたことが認められ、さらに被告人は一審公判廷では公訴事実記載の動機の全部または一部について供述したが犯行それ自体については否認し、二審公判廷でも犯行を否認したことがうかがわれる。ところで、当時被告人の審理について適用のあつた旧刑事訴訟法三四三条一項(日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律一二条二項により同法施行後は不適用となる。)によれば、被告人及びその他の者の警察官、検事に対する供述を録取した書類は供述者の死亡、病気等による尋問の不能、訴訟関係人が異議のないときの外は原則として証拠とすることができなかつたこと、並びに前記確定判決の証拠理由中の「被告人ノ当公廷ニ於ケル」とあるを「原審公判調書中」と訂正する旨の記載はあるが「証人ノ当公廷ニ於ケル」とあるを「証人ノ原審公判調書中」と訂正する旨の記載がないことを考え合わせると、被告人及び女子工員らに関するものとしては、被告人の一審公判廷における供述(動機に関するもの)のほかに、恐らくは予審判事の被告人に対する尋問調書、予審判事の女子工員らに対する証人尋問調書がその有罪認定の証拠とされていたことは間違いなく、場合によつて訴訟関係人が異議を述べなかつたとすれば、右の外に被告人の警察官、検事に対する供述を録取した書類及び女子工員らの捜査機関(警察官に対するものがあつたことは明らかであるが、検事に対するものがあつたかどうかは証拠上不明確)に対する供述を録取した書類もその有罪認定の証拠として供されていたことが考えられ、結局被告人の自白及び女子工員らの供述が有罪認定の決め手の証拠とされていたことがうかがわれる。

つぎに、干文柱の朝鮮製綱に対する放火事件の証拠についてみると、再審開始決定前の証人松田伝治、同長谷川寛(一、二回)、同大橋光男、同堤初男に対する各尋問調書及び証人松田伝治の当公判廷における供述によれば、干文柱の憲兵隊、長谷川検事、松田予審判事に対する、スパイとして人心攪乱のため朝鮮製綱に放火した旨の自白を録取した書類、干文柱の第一回公判における自白を記載した公判調書、前に被告人の事件の際に取り調べられた韓国人女子工員らの長谷川検事、松田予審判事に対する、犯人の後姿が干文柱に似ている、前に金森に似ていると言つたのは、間違いである旨の供述を録取した書類または証人尋問調書、憲兵の実況見分調書、長谷川検事及び松田予審判事の検証調書がその主要な証拠として存在し、結局右の干文柱の自白及び女子工員らの供述が起訴事実及び予審終結決定の公判に付すべき事実の各事実認定の決め手の証拠とされていたことがうかがわれる。

(三)  しかし、被告人及び干文柱の記載の存在しない現在、前記各資料にあらわれている被告人の自白、干文柱の自白、女子工員らの供述並びに公訴事実に記載される動機について検討し、両事件についていずれの自白及び供述が真実であるかを究明することがすなわち本件公訴事実の成否を判定することになるわけである。

第四当裁判所の判断

よつて、前記女子工員らの供述、干文柱及び被告人の自白並びに本件公訴事実に記載される犯行の動機について検討し、本件公訴事実の成否について判断することとする。

(一)  女子工員らの供述について

犯人の後姿を目撃したという韓国人の女子工員の人数及び姓名については、被告人はその再審請求書において平沼任珠、勝田尚任、崔相今、呉乙任の四名といい、再審開始決定前の証人長谷川寛(一回)は李徳順、金粉伊、李淑伴ほか一名の四名といい、その姓名は合致せず、証人松田伝治は当公判廷において姓名は記憶にないが、被告人の事件のときも干文柱の事件のときも女子工員二名を証人として調べたことは記憶にある、ほかにおつたかもしれないといい、干文柱の事件の際予審立会書記をしていた林秀成名義の陳述書によれば女子工員二名というが、これら女子工員の予審での証言が被告人を有罪と認定した重要な証拠であることは前記のとおりである。そして、再審開始決定前の証人松田伝治に対する尋問調書及び同証人の当公判廷における証言を総合すれば、犯人を目撃したという女子工員二名は予審の証人として「事件当夜、正門を入つた構内中央の朝鮮製綱工場の入口の反対側にある製品倉庫の前あたりに立つていたとき、その朝鮮製綱の入口から中へ入ろうとする国民服を着た男の人の後姿を見た。その後姿が金森に似ていたので、金森は今時分なんであんなところに入るんだろうかと思つた。一と証言していたことが認められ、再審開始決定前の被告人に対する質問調書によれば、被告人は事件当夜夜勤で出勤していて国防色の作業服を着ていたことが認められる。これに対して干文柱の事件の際の右女子工員らの供述についてみるに、再審開始決定前の証人長谷川寛に対する尋問調書(一、二回)によれば、長谷川検事が干文柱の事件について現場検証をした際、前記女子工員四名はいずれも「正門の守衛室から五、六間のところへ来たときに、国民服を着た男が正門を乗り越えて行く後姿を見た。その男の身長は五尺五寸前後(約一メントル六七)で肩の線などはごくやせた形であつた。」と供述したので、そのあと干文柱を見せ、その後姿をよく現認させたところ、右四名とも「ああ、この人の形によく似ています。前に金森の後姿によく似ていると言つたのは、自分たちの監督がお前達が見たというのは金森に相違ない。国民服を着て小さいかつこうだといえば、金森よりほかはない。金森に間違いないと言われるので、私達は金森が犯人だという確信はなかつたけれども、金森に相違ないと言つた。しかし、今こうして干文柱をよく見ると、この人の形の方がよく似ている。金森さんは非常にやかましかつたので、韓国人監督の間では金森に対し感情的に非常に反感を持つていたので、そのように押しつけたのではないかと思う。」と供述していたことが認められ、再審開始決定前の証人松田伝治に対する尋問調書及び同証人の当公判廷における証言を総合すれば、干文柱の事件の予審の際、前記金森の事件の際に取り調べた女子工員二名に対して国民服を着ていた干文柱を現認させたところ、いずれも「構内の朝鮮製綱の入口から入つて行く国民服を着た人の後姿はこの人によく似ている。」と証言し、その際、前の証言を変えた理由についてもたずねたと思うが現在記憶にないことが認められる。右の証人長谷川寛の証言と証人松田伝治の証言とでは、女子工員らが後姿を見たという犯人の位置が一方は正門を乗り越えて行く後姿といい、他方は構内の朝鮮製綱の入口を入つて行こうとする後姿という違いがあるが、この点、松田証人は当公判廷において、朝鮮製綱の入口を入つて行こうとする犯人の後姿を見ている女子工員二人の捜査機関による現場検証の写真があつたことをはつきり覚えている旨証言しているから、松田証人の証言の方が正確と思われるが(長谷川証人は干文柱が正門を乗り越えて逃げた旨供述しているところから、この供述と混同しているのではないかと思われる。)、いずれも、女子工員らが国民服を着た犯人らしき者の後姿を見、それが前には金森であると言つたのは間違いで、干文柱に一層よく似ていると供述を変更したものであることは同一であり、ことに、前記長谷川証人に対する尋問調書によれば、長谷川検事は前記女子工員らの供述に基づき女工監督の韓国人金某(男)について取り調べたところ、同人は金森に対して反感を持つていたとの点は否定したが、同人から「犯人を目撃した女工達から、犯人は国民服でこういう身体かつこうのものであるということを聞き、そうすると、そういうかつこうの者は当時金森よりほかにいなかつたので、私は金森じやないかと思い、そのようなことになつた。」旨の供述を得て、女子工員らが金森によく似ている旨供述した事情を確認したことが認められること、また、前記松田証人の当公判廷における証言によれば、干文柱と被告人とは背丈が似ていて、いずれも国防色の服を着、干文柱の方が幾分被告人よりはやせていたけれども、女子工員らの現認の場所は夜間薄暗く、両者を見誤る可能性のあることがうかがわれること、女子工員らも前に金森の事件の際に供述しているところから、干の事件の際の供述には慎重であつたと推測されることからすると、女子工員らは前には犯人を部内者と軽信して、金森によく似ていると供述したのではないかと考えられ、以上の事実と後記干文柱の自白の真実性をもあわせ考えると、女子工員らの両事件における供述中干文柱の事件の際の「干文柱の後姿によく似ている。」旨の供述の方が真実性があると認められる。

(二)  干文柱の自白について

再審開始決定前の証人大橋光男に対する尋問調書によれば、干文柱は釜山憲兵分隊で主として大橋光男軍曹の取調を受け、その際「自分は釜山で房硫芝の中華料理店に住込店員として働いていたが、房とは同じ年頃なのでよく気が合つた。その店へ許作旗が同じような商売をしていた関係で出入りし、同人も同じ年頃なので、三人は友達になり、年に一回位三人が一人ずつ交替で郷里(山東省)に帰るときは土産を持つて帰つてもらうとか、映画を一緒に見に行つたり、一緒に飲みに行つたりしていた。自分は山東省にいたとき、八路軍の中尉から日本の後方を攪乱し、日本の経済力を弱め、日本の中国征服の野望を打破するため放火するようにと言われ、房の家で許作旗や房硫芝に対し、日本の経済力を消耗させるため放火するように言つた。そして、自分がその見本を見せてやるということで、兵站病馬廠と朝鮮製綱に放火した。」旨供述し、憲兵隊の現場の実況見分の際には事件当夜九時半頃に兵站病馬廠に放火して駈け足で朝鮮製綱に行き、様子をうかがい人がいなかつたので、表門の木製の大門からそれを飛び越えて構内に入つて行つたら、自然に工場の中へ入つて行つたが、誰もおらず、暗いので機械か何かで頭を打つて怪我をした。見たところ、綿屑のようなものがあつたので、家から持つて行つたマッチで火をつけたら、パッと燃え上つた。それでもと来た道をまつすぐに、また門を飛び越えて逃げた。そのときも誰もいなかつた。」と供述していたといい、前記証人長谷川寛に対する尋問調書(一、二回)によれば、干文柱は長谷川検事の取調に対し「自分は中国本国からの秘密指令により本国謀報機関のメンバーとして京城の本部の指令に基づいて活動していた。朝鮮製綱に対する放火の当夜、マッチを携行して同工場の小さい通用門が開いていたので、そこから構内に入り、すぐ右手、門の脇にあつた二坪ばかりの工員の休憩室のような建物に入つた。入つたとたん、目の前の棚の上にマッチの小箱があつたので、とつさにこれを取り、入口と反対側の板壁がこわれていて機関室に通じるような穴があいていたので、そこを潜つて機関室を通り、製綱の機械設備のある部屋の方へ行つた。粗紡機の北側付近の床に粗紡の麻屑が散らばつていたので、これを掻き集め、棚上から取つたマッチを二、三本すつてこれに火をつけた。火をつけた付近は、少し離れた南側の部屋に弱い光の電燈がついていて、その薄ぼんやりした光で動作をするには支障がなかつた。火をつけてから急に恐怖心が出て、あわてて、そのつけた現場から、入つて来た方向とは反対側に、その部屋の外(煉瓦の外壁の内側)に出、その部屋の西側通路を南へ行つたところ、人の声が聞え、構内にある朝鮮製綱工場への出入口の両開きの扉付近に来たとき、じやんじやん鐘が鳴つたので、てつきり自分の放火が発覚したと思つて、その扉に体当りしたところ、簡単に開いたので、正門に通する空地に出、正門のところに来たが、前に入つた通用門の扉が閉めてあつたので、夢中になつて正門(高さ約六尺)を飛び越えて逃げた。牧之島の手前まで行つて振り返つて見たら火焔が上つているのが見えた。」と供述したといい、前記証人松田伝治に対する尋問調書及び同人の当公判廷における証言を総合すれば、干文柱は予審の何回かの取調に対し、当初から素直に自白し、終始自白を変えることはなく、「自分は中国のスパイで朝鮮の人心攪乱の目的で放火した。朝鮮製綱へ表門から入つて構内の朝鮮製綱の入口から工場に入り、東北隅の粗紡機のある場所にあつた麻屑のようなものにマッチで火をつけて、そのまま元来た道を通つて急いで事務室横の表門の小門を乗り越えて逃げた。」と供述していたというのであるが右三証人の証言では、干文柱の侵入した門、その侵入の方法、朝鮮製綱の工場内への侵入経路、放火してからの逃走経路及び逃走した門、その方法等についてくい違いがあるが、干の放火地点の供述については、長谷川、松田両証人の証言は一致し、大橋証人の証言も大体これに一致していると認められ、放火の方法として麻屑または綿屑のようなものにマッチで放火したとの点については、三証人の証言が一致している。しかし、三証人の証言の間に一致しない点があつても、何分にも二〇数年前の記憶をたどつての証言であるから、右の程度の不一致があつてもやむを得ないところであつて、要は、右三証人の証言の一致する干の放火そのものについての自白が真実であるかどうかが問題である。

そこで、まず憲兵隊での干文柱の検挙及び取調の状況についてみるに、前記証人大橋光男に対する尋問調書及び同証人の当公判廷における証言並びに再審開始決定前の証人堤初男に対する尋問調書によれば、昭和一八年一二月六日午前四時頃、当時軍の指定軍需工場となつていた朝鮮重工業に火災が発生し、憲兵隊でもその原因を究明することになり、当時大邱憲兵隊から中共八路車や国民政府軍の諜報活動が盛んで朝鮮、満洲に潜入して放火謀略を計画しているという情報があつたので、中国人の行動調査をするうち、中国人数名の麻雀賭博を探知し、これらのうち平和楼の店員許作旗、房硫芝、某の三名が前記火災発生の時刻頃に中座したことが判明したので、大橋光男、堤初男両軍曹らが右三名を逮捕して追及したところ、が「私は牧之島へ一緒に行つたけれども、お前はここで待つとれというから橋の上で待つていると、朝鮮重工業が火災になつて、二人が走つて帰つて来たから三人で平和桜に帰つて来た。」と供述したので、許作旗、房硫芝を追及した結果、朝鮮重工業外数ヶ所の放火を自白し、許、房の家宅捜索をしたところ、報告をするためと思われるいくつかの新聞の切抜きが発見された。許、房は「昭和一八年春頃山東省芝罘に帰つた中国人の同志干文柱から頼まれて放火したもので、干文柱は自分でも朝鮮製綱、宝水町の市場、兵站病馬廠などに放火している。」旨供述したので、大連憲兵隊に干文柱の逮捕方を依頼し、同憲兵隊において昭和一八年の暮か昭和一九年の正月頃、山東省芝罘で相当苦心のうえ当時八路軍の中尉の下で密偵のような仕事をしていたという干文柱を逮捕し、大橋軍曹外一名が大連に出向いて干の身柄の引渡を受け、干をまず鎮海の憲兵隊官舎に、その約五日後に釜山の憲兵分隊に連行し、大橋、堤の両軍曹がその取調に当つたが、干は鎮海に連行した当初、仁川、京城での放火を自白し、二日目位から前記認定のような朝鮮製綱、兵站病馬廠の放火を自白するに至つたことが認められる。ところで、干の憲兵隊における取調に関し、証人森下保雄に対する再審開始決定前及び当審の各尋問調書によれば、同証人は、干に対する憲兵隊での取調に際し、干を氷のはつた防火用水につけたり出したりしているのを見た旨証言し、前記堤初男に対する尋問調書によれば、同証人は、干文柱に対して氷水を頭からぶつかけたりした旨証言し、前記証人長谷川寛に対する尋問調書(一、二回)によれば、同証人は、干は憲兵隊できつい拷問を受けたと言つて衰弱していた旨証言し、前記証人大橋光男に対する尋問調書によれば、同証人は、竹刀で干を叩くなどのことはした旨証言しているから、憲兵隊で干に対して拷問を加えたことはうかがわれるところである。しかし、前記証人大橋光男に対する右尋問調書及び同証人の当公判廷における証言並びに前記証人堤初男に対する尋問調書によれば、大橋軍曹らが大連で干の身柄の引渡を受けた際、干に対して許作旗、房硫芝の写真を見せ「なんで捕つたかわかつているか。」と尋ねたところ、「わかりました。」と言つて観念したように見え、鎮海に連行した当初は京城、仁川での放火は自白したが、釜山の事件については口を割らなかつたが、二日目から許や房らが供述していると思つて観念したものか、放火先を聞かないのに朝鮮製綱等に対する放火を自白したこと、鎮海に約五日いる間は別段強制を加えられていないし、干はその後も自白をひるがえすようなことはなく、ただ犯行の日時が違つたり、諜報組織や指揮系統については口をとざしたため竹刀で叩いたり、氷水をかける等の拷問を加えたことのあつたことが認められる。証人森下保雄の前記証言は、同証人が直接干らの取調に当つていないところから、干が許、房らが干の犯行について供述した後に逮捕されたものであるのに、許や房らと同時に逮捕されたものと誤解し、許や房に対する拷問と混同していると思われるふしが認められるから、右証言からしては直ちに干の朝鮮製綱に対する放火の自白の信用性を否定するわけにはいかないけれども、他方、証人森下、同堤、同大橋の前記各証言によれば、干が逮捕される契機になつた許や房の自供を得るについて相当きびしい拷問を加えたことがうかがわれるから、この点からすると、憲兵隊における干の自白の信用性については疑いを抱かざるを得ないところである。しかし、その後、長谷川検事が干の自白が拷問による虚偽の自白ではないかと警戒して、その自白にとらわれることなく独自の観点から干を取り調べ、また松田予審判事も同様慎重な取調をして、それぞれ任意の自白があつたのであり、かつ、大橋証人に対する尋問調書及び同証人の当公判廷における供述によれば、干は公判において事実を認めていたこともうかがえるから、干が憲兵において内容虚偽の自白をしたものとは考えられない。従つて、前記大橋証人の証言の内容になつている干の自白の信用性を否定すべきものとは考えられない。

つぎに、検事及び予審判事の干に対する取調状況ならびにその取調における干の自白の信用性についてみるに、前記証人長谷川寛に対する尋問調書(一、二回)及び証人静永世策の当公判廷における証言によれば、長谷川検事は、干が憲兵隊で拷問を受けて虚偽の自白をしたのではないかと警戒し、また、当時釜山地方法院検事局次席検事であつた静永検事は長谷川検事に対して憲兵隊の調べには無理が多いし、犯人の後姿を見たという女工の証言が唯一の証拠らしいので、本人がかりに自白していても事件がくずれるおそれがあるから余程慎重に捜査するように指示し、長谷川検事は干の憲兵隊での自白にとらわれることなく独自の観点から捜査にあたり、かつまた同じ事件につき金森が有罪判決を受けて服役していることを知つて、約五件の送致事実中とくに朝鮮製綱に対する放火事件の捜査に全力を傾けて慎重に取り調べた結果、前記認定の干の任意の自白を得たものであり、干に対して自白が間違いないかを念を押して尋ね、さらに、工員らの供述の変更及び金森の自白の不合理であることなどを検討し、干の自白が自然で真実性があることを確信したうえ、あえて昭和一九年四月下旬頃同一事件につき干を二重起訴し、その後上司に金森の再審手続を具申していることが認められ、さらに前記証人松田伝治に対する尋問調書及び同証人の当公判廷における供述によれば、松田予審判事は金森に対し有罪の予審終結決定にして公判に付した約二年後に同じ放火の事案につき起訴されて来た干の事件に対しては極めて慎重に取り調べたが、干は数回の予審の取調に対し、終始すなおに自白し、検証現場で自白にそう犯行の実演をしたこと、前記女子工員らの供述の変更、服役中の金森を証人として取り調べ冤罪を訴える証言を得たことなどから干の予審での自白の真実性を検討したうえ、あえて二重の予審終結決定をして公判に付し、検事正らに金森の再審手続を依頼していることが認めらる。右認定のところよりすると、証人長谷川寛の証人尋問調書(一、二回)並びに証人松田伝治の証人尋問調書及び当公判廷における供述の内容になつている干文柱の検事及び予審判事に対する本件放火の自白は任意性があり十分信用することができる。

検察官は、干文柱の放火の動機としては、スパイ活動によるものであるとするのであるが、当時の憲兵隊の強力な調査、捜査能力から考え、スパイ系統が解明されていないことは合点がゆかず、干がスパイであるかどうかは疑問があり、従つてスパイ活動による謀略放火という動機が不明確であるから、干の自白はその信用性に疑いがあるというのである。しかし、前記証人大橋光男に対する尋問調書及び同証人の当公判廷における供述、前記証人堤初男、同長谷川寛(一、二回)に対する各尋問調書、前記証人松田伝治に対する尋問調書及び同証人の当公判廷における供述によれば、干が中国スパイの一員で人心攪乱の目的をもつて朝鮮製綱に放火したことが認められるのであつて、右証人大橋に対する尋問調書によれば、干は諜報組織や指揮系統については口をとざして供述しなかつたことがうかがわれるけれども、スパイが自己の犯行について既に他の者が供述しているものと観念して自供することがあつても、スパイの組織系統について緘黙することは十分考えられるところであり、従つて、スパイの組織系統が解明されていないことから、直ちに干自身がスパイであることを否定し去ることはできないから、右所論は採用しがたい。また、検察官は、長谷川証人は放火地点の付近に弱い光の電灯があつたこと及び鐘が鳴つたとの供述が客観的事実に符合するので真犯人に相違ないと思料したと供述するが、この点については憲兵隊においていかなる取調がなされたか判明しないので明言することはできないが、右事実について憲兵隊が干文柱につき数十日に及ぶ十分な捜査が尽されていたと思料されるので、干は憲兵隊の調べで右事実についての知識を得ていたのではないかと思われ、従つて干が長谷川検事に対して客観的事実に符合する供述をしたとしても、これをもつて心証を得たとすることはできない、というのである。なるほど、前記長谷川証人の尋問調書(二回)によれば、長谷川検事が所論の事実関係から心証を得た旨の証言があるが、同検事は干の自供に基づいて工場側の参考人について取り調べ、これに符合する事実を確めたというのであるから同検事の心証形成過程は十分肯けるところであり、たとえ、右所論の干の供述がさきに憲兵隊でなされており、かつ憲兵隊が工場側の参考人について取り調べ、これに符合する供述を得ていたとしても、同検事がこれと同様の自己の取調の際の干及び右参考人の供述をもつて、干の自白の真実性についての心証を形成したとしても、経験則に、反するものとはいえないから、右所論も採用しがたい。さらに、検察官は、大橋証人は、朝鮮重工業の放火事件につき被疑者数名を取調べ中、干文柱の名が浮び上り、同人を逮捕するに至つたので、朝鮮製綱の事件については干文柱の単独犯行であるが、他の被疑者との共犯事件もあり、事件は共犯事件を含め一括して送検した旨供述するに対し、長谷川証人及び松田証人は、干文柱関係事件はいずれも干文柱の単独事件で、共同被疑者あるいは共同被告人はなかつた旨供述し、干文柱関係事件で共犯者がどうなつたかは解明できないままとなつている。干文柱の犯行が単独犯のみであるとすれば、スパイ仲間から干の犯行が発覚するということも不審とされるところであるし、とくに朝鮮製綱の放火事件が干の単独犯であるとすれば、スパイとされる干が自発的にその犯行を自供するということも不自然であるし、また共犯者があつたとすれば、判、検事が口をそろえて単独犯であつたと断言するのと矛盾し、理解しがたいというのである。なるほど、前記証人大橋光男、同松田伝治の当公判廷における証言及び証人長谷川寛に対する尋問調書(一、二回)によれば、所論のような各証言がうかがわれるけれども、右証人大橋光男は、仁川の市場、京城の料理屋、釜山の日韓市場、朝鮮製綱、兵站病馬廠の事件は干の単独犯行であるといい、長谷川証人の証言とほぼ一致しているところからすると、憲兵隊から干及び許、房らの事件を一括して送検されたけれども、干の事件が単独犯行であつたため、別個に取り扱わたのか、それとも、干の逮捕が許、房らの逮捕よりも相当おくれ、かつ、主謀者であつた干の関係した事件が多かつたため捜査に日時を要したところから許、房らの事件の送検よりもおくれて送検され、従つて別個に取り扱われたか、そのいずれかではないかと推測され、また、干が逮捕されるに至つたのは、許、房を追及したところ、「同志の干文柱から頼まれて放火したが、干自身でも朝鮮製綱、宝水町の市場、兵站病馬廠などに放火している。」旨自供したからであつて、許や房が同志の行動について知つていたことは十分考えられるところであり、右許、房の自供については任意性に疑いがあるけれども、右自供に基づいて干を検挙し、許、房が供述していると観念した干が朝鮮製綱に放火したことを自白したことは決して不自然ではないから、右所論も採用しがたい。

(三)  被告人の自白並びに公訴事実記載の動機について

さきに説示したとおり、被告人は警察官、検事、予審判事に対しては犯行を自白し、一審公判廷においては動機について供述したが犯行自体については否認し、二審では犯行を否認したことがうかがわれるのであるが、前記証人松田伝治に対する尋問調書によれば、被告人は警察官、検事、予審判事に対して公訴事実記載のような動機について供述し、犯行の手段方法について警察官、検事に対し「構内の朝鮮製綱の入口から同工場内に入り、粗紡機のある工場建物の西側通路を通り、同建物内東北隅の麻屑を積んであるところヘマッチで火をつけた。」と供述していた(同証言では「表門を越えて構内の云々」となつているが、同証人の当公判廷における「表門を越えて入つたとの点は記憶が不明確である。」旨の供述に比照し間違つて供述したものと思われる。)ことがうかがわれるから、一審公判廷において右動機の全部または一部に照応する供述があり、また予審において右犯行自体についての供述と同様の供述があつたものと考えられる(被告人は警察でのみ自白させられたという。)。

そこで、右松田証人の証言の内容となつている被告人の自白の信用性についてみるに、再審開始決定前の証人毛利一男、同岩田祥一、同松村正治、同林田重生に対する各尋問調書及び被告人本人に対する質問調書並びに証人小西祥進の当公判廷における証言を総合すれば、被告人は本件火災発生の三、四日前から風邪を引いて欠勤し社宅で休養していたが、火災発生の当日病気が軽快したので、夕刻出勤し、小西と交替して夜勤についたこと、当夜は日本帆布及び朝鮮製綱合同の社内運動会の前夜に当り、正門脇の事務所兼守衛室で数名の社員が運動会の準備をしており、被告人も帆布工場内を巡視した後事務所に戻つて他の社員とともに準備をしていたところ、午後九時一〇分頃機械修理のため残業していた工場長の小路梅市が事務所に来て「自分は帰るから工場へ行つてくれ。こんなところに幹部が残つてするのはいかん。」(証人松村正治に対する尋問調書中の被告人の供述)と言つて退社し、被告人は九時三〇分の休憩の合図の鐘を鳴らし、その際通用門の内側にある柵にかんぬきをはめ、九時四五分に休憩終了、作業開始の合図の鐘を事務所の出入口を出たところで鳴らし、事務所に入つてあと片づけをしていると、事務所の前をさつと通り過ぎ柵を乗り越えた人影が目に入り、そのあと間もなく社員の松村正治が二階から「火事だ」と叫びながら駈け降りて来、被告人もともに事務所を飛び出したが、朝鮮製綱の工場北東部当りから火の手が上がり、工場内には燃えやすい油の浸み込んだ麻屑が散乱していたため火の回りが早く、被告人は初め防火の手伝をしていたが、すぐ帆布工場内にいた女子工員を誘導して構外に退避させた。朝鮮製綱の工場建物は周囲の煉瓦壁を残して全焼し、帆布工場は板壁の一部が焼けこげた程度で、事務所、社宅等への延焼は免れた。右火災の翌日の午後、被告人は朝鮮製綱の工場長小川喜一郎とともに釜山警察署に呼び出されて逮捕され、つづいて前岡製綱株式会社社長前岡英明、朝鮮製綱株式会社社長毛利一男、岩田祥一、坪金亀太郎、細川安松、林田重生、山本誠一、中西某ら会社の幹部や社員が次々と逮捕され、千代田火災海上保険株式会社大阪支店社員中江某、代理店須田某らも逮捕され、焼失した工場が火災保険料を一回支払つたのみの状態であり、かつ、火災後前岡社長ら会社幹部と保険会社員中江、代理店須田らが出火の翌日に温泉旅館に同宿したことから保険金詐欺放火の容疑をかけ、社長以下殆んど全員が三〇日ないし六〇日間拘束された。被告人は井上部長刑事部長、韓国人の金本刑事に調べられ、「植民地の拷問の味を知れ。」と言われて、口にゴムホースを突つ込んで水道の水を流し込まれたり、鉛筆を二本合わせて指の間に入れて締められたり、後手に縛られて天井につり上げられるなどされて、「前岡英明に放火を頼まれたやろ。」と追及されたが、覚えのないことなので「知らん。」とつつぱねていたが、帆布工場の年少の女子工員二名位が犯人の後姿を目撃したと供述し、その後姿が被告人に似ていたと供述したため、被告人は厳しく追及を受け、他の人は皆釈放されて被告人が唯一人になつたので、公判で宣誓させられたときに真実を述べれば公判でひつくり返せるものと思い、留置されてから五九日目に、「小路に恨みがあつて放火した。」旨うその自白をするに至り、翌日検事局に送られ、検事局では韓国人の平賀右内検事に調べられて自白し、予審請求されて松田予審判事の取調を受けて自白したが検事局、予審は警察と一体のものと思つて警察での自白を維持したこと、林田重生が釜山警察署に四〇日間留置されて釈放される際被告人の留置されていた房の前を通りかかつたときに、被告人は「自分は決してそんなことはしていない。」と話しかけていたこと、妻金森たつえが、釜山警察署の前で同署から次の所へ回される被告人に出会つた際、被告人が「わしじやないから心配するな」と言つていたこと、干文柱の事件について長谷川検事が昭和一九年五月二〇日京城刑務所で服役していた被告人を尋問した際及び松田予審判事が同年八月七日大田刑務所で服役していた被告人を証人として尋問した際、いずれも被告人は自己の犯行を否定し無実を訴えていたこと、昭和二二年一一月仮釈放により出所して帰宅してからも自宅付近の掲示板に自己の冤罪を訴えるビラを貼るなど狂気と思われるほど冤罪を訴えつづけていたことが認められる。右認定事実によれば、釜山警察署の捜査官は、当初会社幹部らの保険金詐欺を目的とする放火として取調を開始し数十日を経たが証拠があがらないため、前記女子工員らの供述を根拠として被告人に恨みの放火として自白をさせたものと認めるべきで、右自白に当つては直接拷問を受けていないけれども、被告人が自白するに至つた経過、服役中及び出所後の前記被告人の言動等からすると、被告人の自白はその真実性について疑いがあるといわざるを得ない。

さらに、本件公訴事実摘示の被告人の放火の動機は、(1)被告人は日本帆布合名会社釜山工場長小路梅市と平素から折合が悪かつたこと、(2)昭和一六年九月二三日(本件放火の九日前)に、右工場長が被告人らに取り扱わせていた職工出勤簿を人事係長坪金亀太郎に取り扱わせたことから痛く同工場長に反感を抱くに至つたこと、(3)同年一〇月二日午後九時半頃(本件放火の約一五分前)に、被告人が同工場事務所内において数名の事務員らと共に職工運動会の準備をしていた際、同工場長から被告人が自分の受持仕事もせず無用の事務所内におることを注意されたため、憤激したこと、(4)そして日本帆布合名会社釜山工場を焼き払い、同工場長をしてその責任上失職せしめて復讐しようと決意したこと、となつている。右の動機については、被告人の自白のほかに、関係人の供述があつたことは前記証人松田伝治に対する尋問調書及び同証人の当公判廷における供述によりうかがわれるところである。しかし、小路梅市及び被告人の上司である毛利一男、岩田祥一は再審開始決定前の証人として、被告人の同僚であつた小西は当審の証人として、いずれも被告人と小路とが平素から折合が悪いということはなく、被告人が小路に嫌われていたことはなかつた旨証言して、右(1)の点を否定しており、出勤簿の取り扱の変更について、右毛利証人はそのような事実の有無については確知していないが、かりにそのようなことがあつたとしても被告人の威信を傷つけるなどそれ程に重視される事柄でなく、反感の原因となることではないと証言し、右小西証人は出勤簿の取扱は同人と被告人がそれぞれ受持の女工の出勤簿を取り扱つていて、女工達の名が金等同姓の者が多いので顔を知つている同人と被告人が取り扱わねば間違いを起しやすいので、そのような変更をしたことはなく、同人と被告人が点検した後、人事係長の坪金亀太郎らに引き継いで連絡をしていたものであつて、被告人が女工に対する面目を傷つけられるというようなことは考えられないと証言して、右(2)の点を否定しており、本件出火直前被告人が事務所で小路から注意されたとのことについては、証人松村正治に対する尋問調書中の被告人の供述記載によれば、被告人は、事件当夜、翌日の日本帆布と朝鮮製綱の職工合同運動会の準備をしていたところ、機械修理の残業を終え退社しようとして事務所に寄つた小路梅市から「自分は帰るから工場へ行つてくれ。こんなところに幹部が残つてするのはいかん。」と注意されたが、右の注意は強い調子で言われたものではないことがうかがわれるし、また、前記毛利、小西両証人の証言によれば、同運動会は毛利社長の命によつて行なうもので、被告人自身もの責任者であつたことがうかがわれるから、被告人が右の注意を受けて気にさわることがあつたとしても、放火に結びつける動機としては極めて薄弱である。なお、証人松田伝治に対する尋問調書によれば、被告人の妻金森たつえは予審の証人として、事件当日被告人と夫婦喧嘩をした旨証言していたことがうかがわれるけれども、証人金森たつえの当公判廷における証言によれば、朝鮮に行つてから淋しいものだから、つい当つて夫婦喧嘩をすることがあり、当日も夫婦喧嘩をした後、被告人は映画を見に行つて夕方帰宅し、家族と一緒に夕食をしたうえ出勤したもので、別に根に持つようなものでなかつたことが認められる。そして証人岩田祥一、同松村正治に対する各証人尋問調書、証人小西祥進、同金森たつえの当公判廷における各供述、弁護人提出の本件火災前及び現在の会社建物の写真計四〇葉、写真撮影位置図と題する書面、岩田祥一の供述書添付の図面二葉を総合すれば、本件出火点は朝鮮製綱の建物のうち日本帆布に最も遠い箇所であり、かつ、朝鮮製綱の工場建物は厚さ約三〇センチメートル、高さ四、五メートルもある煉瓦壁で囲繞され、日本帆布の工場建物、事務所、社宅とは右の煉瓦壁を隔てているので類焼のおそれは殆んどなく、現に、本件火災は朝鮮製綱の工場建物内にあつた油のドラム缶が多量に爆発してその火勢が強く、同会社工場建物は周囲の煉瓦壁のみを残して全焼したにも拘らず、日本帆布の工場建物は板壁のごく一部が燃焼した程度で類焼を免れ、事務所、社宅も全く類焼を免れたことが認められる。従つて、日本帆布の工場長であつて朝鮮製綱には関係のない小路梅市を失脚させる目的からいえば、日本帆布に類焼する危険の殆んどない朝鮮製綱の工場、しかも日本帆布に最も遠い地点に放火することは、甚だ不適当かつ不合理な方法であり、かりに火勢が煉瓦壁を越えて日本帆布工場に及ぶとすれば、同工場は勿論、事務所及びこれと棟を同じくする被告人、岩田祥一、坪金亀太郎、小川喜一郎、小西祥進らの各家族の居住する社宅並びに独身社員の寮も焼失することとなり、しかも、被告人は家財持出など火災に対する準備を全然しておらず、出火の時刻には被告人家族は既に就寝しており、日本帆布では多数の女子工員らが作業中であつたことを考えると、この場合も前記小路を失脚させる目的からいえば放火の方法として甚だ不適当かつ不合理な方法といわざるを得ない。

以上要するに、公訴事実摘示の放火の動機は矛盾に満ち、本件各証拠資料にあらわれている被告人の警察官、検事、予審判事に対する犯行の自白は真実性に乏しく信用しがたいものといわなければならない。

(四)  以上考察してきたところを総合すると、干文柱の事件についての干文柱の自白及び女子工員らの供述は真実性があつて十分信用することができるのに反し、被告人の事件についての被告人の自白及び女子工員らの供述は真実性がなく信用することができないから、本件犯行は干文柱がした犯行であるとの疑いが濃厚であつて、結局被告人の犯行と認むべき証拠は十分でないといかなければならない。

第五結論

よつて、被告人に対する本件公訴事実は結局犯罪の証明がないことに帰するから、旧刑事訴訟法五一一条、三六二条、現行刑事訴訟法施行法二条に則り、被告人に対し無罪を言い渡すべきものとし、主文のとおり判決する。(田中勇雄 竹沢喜代治 尾鼻輝次)

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